きたりゅーは中国が何となく好きです。
特に、中国神話や古代の歴史がそこはかとなく好きなんでありますが、「何となく」とか「そこはかとなく」という副詞をわざと使ってるのは、現在の日中関係やポリティカルな面についてはノーコメントを貫くという暗喩でもあり、以下略。
さて、ベタですが「封神演義」とか「三国志」とか、いいですよねー。
日活ですよ、日活。
あ、違った。ロマンですよ、ロマン。(オヤジ度臨界点突破)
私がこれらの中国的フィクション、ノン・フィクションに嵌った原点は恐らく横山光輝氏の「三国志」だと思われます。
孔明の知的インテリジェンス(待て、同義語だ)に骨抜きにされ、いまいち影の薄い劉備はそっちのけで、関羽の「二君に見えず」には一緒に泣いたもんであります。
以来、情熱的に神田を歩き回って『太平広記』を探したとか、大学では中国文学史についての論文を発表したとか、駅前留学して中国語をマスターしたとか、そういう事は一切ありません。
せいぜい、教育テレビでたまに『はじめての中国語』を見る程度であります。
そんなこんなで、今日は玄奘三蔵の話。
夭折した美人女優でも、リボルバー撃ってる美青年でもなくて、ホンモノの玄奘三蔵法師の話です。
唐代の中国からインドまで行って帰ってきたお方であります。
きたりゅーは小学生の頃、玄奘三蔵の軌跡を見て「なんでこんな遠回りを?」と思いました。
≫とあるブロガーさんの記事(下部の地図参照)
いや、あの軌跡を見て「なんでこんなに遠回りしたんだろう?」と疑問に思わない人は、きっと、
- (他人の事なんか、まして大昔の歴史なんて)興味ないね。
- どうも集中力に欠けているようです。授業中もじっとしてられない事が多くええいやかましいぞこぬやろーが、とよく通信簿に書かれていたタイプ。
のどれかだと思ってます。
さて、長安からナーランダまでの道のりは直線距離にして約2,500キロ程でしょうか。
決して短い距離ではないですが、シルクロードの天山南路や天山北路を通るよりは、この直線距離を取った方が、遥かに時間短縮できるはずであります。
しかし、実際、地図を見てみると、長安・ナーランダ間のほぼ中央には、大雪山脈という7,000m級の山々が連なってるわけです。
酸素ボンベとかホカロンがなきゃ、そりゃ、死ぬがな……。
きたりゅーなんか高尾山(注1)ですら遺言書書いてからでないと登らないのに(しかも実際はケーブルカーを使用)、中国唐代で、着のみ着のままで7,000mの山を越えようという冒険野郎は居なかったと思われます。
じゃあ、山裾を迂回するように南下してインド入りすりゃよかったんじゃ? と思ったのは中学生の頃。
西安からハノイあたりまで垂直に南下して、そこからビルマ方面に抜ける道もあったはず……。
その迂回コースだって、シルクロードを回るよりは短距離で済んだはずなのです。
しかし。
それでも玄奘が取ったのは、往復で17年もかかった遠回りコース。
何故だっ!?
と思うでしょ、普通は……。
もしや、玄奘様は世界地図を知らなかったとか……?
いやそれもあり得ない。
唐代に作成されたとされる地図はかなり正確に大陸の海岸線も描かれていて(注2)、当時、玄奘は世界地図も世界情勢もそれなりに理解できていたはずなのです。
だから、そんな賢い玄奘様が「遠回りコース」をわざわざ選んだという事は、「大雪山脈を南に迂回するコース」は物理的には可能でも、政治的、その他の理由で不可能だった――という事なんでしょう。
ええ、きっとそうです。
玄奘が生きた600年代、インドシナ半島あたりは相当殺伐としていたんでしょうかね。
そこにあった国々(南詔や吐蕃)との外交的な問題もあって、西方面の旅程の方が安全だった(当時、唐の領土はかなり西の方まで伸びていたので)、という事かもしれませんが……。
だとしても、地図を見ると、相当遠回りしてるような気がするんだけどね!
多分、それは言っちゃいけないんだね!
ちなみに、玄奘の没後数年、義浄(ぎじょう)という人が海路でインド入りしてます。
(これを海路シルクロードとも言うらしい)
こちらは往復25年かかってますが、多分、滞在期間が長かっただけで、旅程にはそれ程費やしてないような気もするんだけど……。
実際はどうだったんすか、義浄さん。
*1 東京の片田舎(←失礼)にある、標高599mの小山。
*2 『海内華夷図』、『禹跡図』など。