平安時代の人々は「キス」をしたのか? という話。

2014/04/11 (金) [ 歴史小咄 ]

だいぶ前にネットで見かけて、気になっていた本です。
やっと手元にきました。
歴史的な小ネタ集なんですが、もう、一ページ目から気になる話題満載。
例えば「『~であります』は海軍では使わない」とか「『生き様』は戦後の造語である」とか。
しかし、こういうのって、きっと明日には忘れちゃうんだろうな……。
せめて三日くらいは覚えていられる脳がほすぃ。

「考証要集 秘伝! NHK時代考証資料」大森洋平(文春文庫)

ちなみに、上記「生き様」に関して「……藤沢周平は『お金を積まれても使いたくない言葉』にこれを挙げたそうである」(p.39)とのこと。
(ただし、それが「時代劇で(戦後の造語を使うような)そういう間違ったことはしたくない」という意味なのか、それとも「生き様という言葉自体が嫌い」という意味なのかは不明。本書の書き方だと後者っぽい文意ではありますが)
ちょっとこれらとは観点違いますが、わたくし、「立派な犯罪」は絶対使いたくないですね。
これ、誤用だと思うんですががが。
百歩譲って「立派=れっきとした」と解釈しても、なんか違和感が残るん……だよ……なぁ。
記事タイトルの答えは、本書によると「yes」だそうだけど、そんなの、改めて文献を紐解かなくても、当然やってたっしょ……。

秀頼は本当に秀吉の子供なのか?

2014/02/23 (日) [ 歴史小咄 ]

「河原ノ者・非人・秀吉」服部 英雄

以前、秀吉のことを調べている時に少し気になってチェックした本なんですが、(情報から察するに)分厚いハードカバーだったので、
「こ、今度、時間がある時に読もう……」(意訳:多分読まない)
と、うっちゃっていました。
しかし、縁のある事物というのは、しつこく出会う機会があるものです。
この前、たまたまこの本を読む機会と時間と情熱が重なり、借りて帰るという選択肢も吹っ飛び、図書館で数時間、没頭したように読んでしまいました。
私が一番知りたかった「秀頼は本当に秀吉の子供なのか?」という部分について、この本には納得でき得る明確な解答が書かれていました。
非常に面白かったです。
歴史スキーな一般人としては「どうもこれが真実っぽい」と、思う次第です。
興味のある方はぜひ一読を。

本能寺の変に黒幕など居ない説

2013/06/27 (木) [ 歴史小咄 ]

歴史スキーなわたくしですが、どうも戦国時代にはピンとくる人が居なくて、今までどっちかといえば避けてきた時代でもあるんですが、ここ一ヶ月ほど、浅い興味が色々向いてしまって、にわか戦国時代ウォッチャーになっていました。
そう。あくまでもさらっと見渡すだけのウォッチャー。
例えば、秀吉はやっぱり子種がなかったんだろうかとか、家康の影武者説って本当だろうかとか、無計画に謀反しちゃった光秀ってやっぱりお馬鹿さんだったんだろうか、とか。
そういう井戸端会議的なゆるい興味であります。
しかし、明智光秀に関する「何故?」だけは、ずっと引っかかったままになっていたので、何冊か本を読んでみよう、と、一冊目でいきなりスッキリしました。

「信長は謀略で殺されたのか」鈴木眞哉、藤本正行著

本能寺の変といえば、何故か、色んな黒幕説があって、それらは、無責任に眺めている分には面白いんですが、この本は「本当に黒幕の介在する余地はあったのか?」という懐疑的な立場に立ち、「その余地はなかった。本能寺の変は明智光秀の単独犯である」ときっぱり結論しています。
私も確かに陰謀説は大好きなんですが、陰謀・謀略なんてものは、Bという結果を知っている人間が、事件を俯瞰で遡ってみると、そこにはAという黒幕が居たんじゃないかと推測しうる余地があるから、(面白がって)そう主張しているだけかもよ?
――って話です。
まぁ、確かに。
ご尤も。
しかし、その「嘘か本当か分からない推理の楽しさ」があるから歴史は面白いんじゃないでしょうかね。
素人歴史探偵があれこれ推測したってイイジャナイ。
史実と虚構をごっちゃにしちゃう人も、そうそう居ないだろうし。
役者さんと役柄を混同しちゃう人は居るらしいんですけど。
まぁ、これは分からなくもないんですけど。
日本人なら、竹内力に遭遇すれば思わず三歩下がって一礼してしまうくらい、
誰だってしますしね。
フィクションだと分かっていても身体が反応しちゃう、みたいな。

話は逸れましたが。(確信的に)
つまり、明智光秀は「それほどお馬鹿さんでもないんだけど、やはり詰めが甘かった」ということでFAな感じがします。
十一日という短い天下だったという結果を知っている我々は、「後先考えずにやっちゃったのネ」と思いがちですが、光秀が討たれたのは秀吉の手腕が勝っていたからだし、さらに、細川(藤孝・忠興)親子が思いのほか日和見な態度を取ったからであって、光秀にとってそれらは計算外だった、ということでしょう。
秀吉だってスムーズに「中国大返し」をしたわけでなし、色んな要因が重なってのこの結果なんだろうと思います。

是非に及ばず

2013/06/25 (火) [ 歴史小咄 ]

「是非に及ばず」

本能寺の変において、森乱の「明智軍と見ました」に対し、信長が言った言葉とされていますが(『信長公記』)、この言葉の解釈は、大まかに分けて、以下の二通りあるそうです。

  1. 仕方がない説……あの(用意周到な)明智光秀が謀反を起こしたなら、もう生き延びるのは無理だ。(諦観)
  2. ごちゃごちゃ言ってないで行動するのみ説……謀反の是非を論じてる場合じゃない(その必要はない)。武器を持って来い!(前向き)

ワタクシ、明智光秀があんまり好きではありませんので、光秀の能力を高く評価しているような1の意味にはなんとなく違和感を覚えます。
かといって、2の意味だとしたら、何故「これは謀反か。誰の企みだ」と森乱に聞いたのか、ちょっとスッキリしません。
(まぁ、実際に、軍勢が本能寺を囲んでいる状態でロジカルな会話を期待するのもアレですが)
そこで、きたりゅー的には、ここに言う「是非」は、謀反の是非ではなく、「謀反の首謀者が誰かという是非」じゃないかと勝手に妄想します。

森乱「明智軍と見ました」
信長「あいつ(光秀)か……。ならもう間違いない(首謀者が誰かを論じる必要はない)」

という感じ。
こういう事件においては、当事者にしか分からない直感みたいなものがあるように思います。
歴史的資料がどうのこうのじゃなくて、単純に、加害者、被害者の心理として。
例えば、数年前にちょっと修羅場を経験した人が、その後数年は平和に過ごしていたんだけど、ある日突然、無言電話とか、いたずらメールとかがきたら、
「やべ……、絶対アイツだ」
と直感で理解する、みたいなね。
心当たりアリスギー! みたいなね。
血みどろの戦国時代なら、なおさらです。
信長は、ほうぼうで恨みを買ってますし、その自覚もあったでしょうから、謀反だと聞かされれば「ア イ ツ だ !」という直感はあっただろうと思います。

成吉が思うにぃ~

2013/01/20 (日) [ 歴史小咄 ]

ワタクシ、なんとなく歴史スキーでございます(有史以降の歴史ね)。
ここで「なんとなく」という胡乱な副詞を使うのは、本当に歴史スキーな御方とか、歴史学者の先生とか、その他の専門家の方々に突っ込みを食らいたくないという、こすっからい保険であり事前策なんですが、そんなことを気にしなくったって、そういった方々はこのブログを読みにきてないだろうし、仮に一人くらい歴史の先生なんかが通りすがったことがあったにしても、華麗にスルーされているはずなので問題ないと思います。……ます……ます……(エコー)。

さて、歴史に興味を持ち始めたのは高校卒業後の話でして、それまでは、
「えーと、ジュラ紀とヴィクトリア朝ってどっちが先だったっけ?」
などと言ってましたが、勿論冗談です。
中学くらいの時から興味を持つことができていれば、歴史のテストではいい点を取れたはずなのにナー、というのは後の祭り。
まぁ、人生そんなもんです。
今でも、広範囲に世界史も日本史も知っているわけではなく、興味がある部分しか調べないので「幕末はものすごく詳しいけど、室町時代はほとんど知らない」とか、かなりつぎはぎの知識になってたりしますけどね。
ながーい中国の歴史もかなりつぎはぎな知識になっておりまして、中でも、どうにも、この人のことだけはあまり興味が持てずに今まできてしまったという人がおりまして、

成吉思汗

いや、だって、ほら、土方歳三はイケメンだから、新選組のことも熱心に調べちゃったりするわけだけど、この人の肖像画はどうしたって、ほら、

成吉思汗

そういう情熱が沸かないというか!!

せいきち                      あせっ
「成吉が思うに~それって、アレなの~(汗)」

なんなの~。

江戸城の話。

2012/08/31 (金) [ 歴史小咄 ]

大学生の頃、九州の友人に会いに行った時、新幹線の中からふと見えた姫路城に、
「なんぞ、あの巨大で美しい物体は!?」
と感動したのは今でも覚えてます。
ネズミの国にあるお城とはワケが違うぜ! さすが歴史的建造物!
(※実際には姫路城もあちこちリフォームされていますが、そこら辺には敢えて触れない)

で、唐突ながら、江戸城の話。
あ、皇居じゃないです。江戸城ね、江戸城。
今は皇居として使用されているけど、あくまでも「江戸城」としての話です。
徳川15人の将軍が260年間、全員ここに住んだという、複雑怪奇な構造を持つお城です。
敷地をぐるっと囲むように配置されている「門」は、こんな感じになってます。

パッと見、どこから入ればいいのだ……と、迷いそうなんですが、やはり名前からしても「大手門」が正門です。
貴方が畏れ多くも先の副将軍だったり、参勤交代の挨拶に来た大名であれば「大手門」から入りましょう。
あ、業者さんは裏門からお願いね。
さて、いざ、大手門から入っても、江戸城の玄関に到着するまでには、さらに中之門、中雀門とありまして、この道のりが不可解なまでに曲がりくねっているという有様。
日本のお城は、紫禁城みたいに「大通り、正門、まっすぐ北上!」みたいな構造にしなかった(できなかった)歴史と事情があるにしても、こんな行ったり来たりみたいな迷路では、私のようなイラチは壁を乗り越えてショートカットしたくなります。(できないようになってるんだろうけどね)
そして、ゼェゼェしながら玄関に到着しましたらば、しばし待合室で待たされて、あの有名な松の廊下を長々と歩いて、白書院という部屋に到着。ここでやっと将軍とお目見えです。
お疲れ様。
……というか、会う前に疲れてどうすんねん!

と、こんな感じで、広い敷地を色々無駄に遠回りしないと目的地に辿り着けない造りになっている江戸城なんですが、中でも井伊直弼さんは、どういうルートで登城していたのだろう、と勝手に考えてみました。
まず、彦根藩の上屋敷というのが現在の国会議事堂の真ん前、憲政記念館でして、井伊直弼さんはこんな一等地、江戸城のお隣さんに住んでおりました。
で、そうすると、登城するには遠くの大手門より、近くの外桜田門を使う方が理に適っているんですが、他の大名達が大手門を使ってるのに、一人だけ特別扱いが認められたんでしょうかね?
調べるのがめんd……いや、時間がないので、いつか調べておきます。
ちなみに、桜田門外の変は「上屋敷から出て、桜田門の前を通りかかった時に襲撃された」だけなので、真偽が分かりませぬ。
ただ、桜田門から登城したとしても、本丸玄関に辿り着くのは同じく迷路なんだけどねぇ~。

最後に、お城マニアの方、こんなものがありました。

・東京国立博物館「江戸城 ―本丸御殿と天守―」
 ≫http://www.tnm.jp/modules/r_event/index.php?controller=dtl&cid=12&id=6158
・凸版印刷 ニュースリリース
 ≫http://www.toppan.co.jp/news/newsrelease915.html

GJ、凸版!

辞世の句にツッコミを入れてみる。

2012/08/28 (火) [ 歴史小咄 ]

前回の名言の話に引き続き、今日は辞世の句の話です。
小さい頃、ものすごく疑問だったんですが、怪人たちは何故ライダーキックを待ってあげているのだろう(逃げればいいのに!)と同じレベルの話として、

何故、昔の人は死ぬ直前に辞世の句を考えるヒマと詠むヒマがあったんだろう!?

……と不思議に思って、
「そうか……、昔の人はすごく頭がよくて、咄嗟に気の利いた句が浮かんで、処刑執行人はもとより、戦場で合間見えた敵将も、句を詠むまでは(殺すのを)待ってあげる習慣があったんだな」
と思っていた子供の頃のきたりゅーは、非常に純粋(≒ヴァカ)であったのかもしれません。
まぁ、今となっては、辞世の句は予め用意していたのねって事は分かりますが、一族郎党皆殺しの憂き目にあった人の場合、誰が机の引き出しから『それ』を発見するんでしょうね!? とか、あれこれ考えると、夜しか眠れません。
特に戦国時代なんかは焼き討ち・全焼アタリマエー! の時代だっただろうから、箪笥の裏に隠しておいた傑作の辞世の句が焼けちゃったよ……って人も居たんじゃないかと思うと、ちょっと気の毒です。

さて、ここで、有名な辞世の句に、いくつか、きたりゅーがツッコミを入れてみようと思います。

浅野長矩
 風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん

切った張ったの世界で、辞世の句が恨み節になるのは仕方ないとしても、これはちょっと大人げないんでないかい、と思った代表例。
これ、絶対、大石に「あだ討ちせいやー!」と言ってますよね。
言 っ て ま す よ ね 。
つまり「お前らも道連れ!」ですよ。
これは、一国一城の主としていかがなものか。
五万石の大名が、殿中では絶対抜いちゃダメと分かっているのに刃傷事件を起こしちゃって、どんな裁きも受けると言っているのに、いざ切腹になったら、この未練たらたらな辞世の句。
ちょっと考えられません。
(長矩、精神病説を採れば分からない話ではないけど)
しかしながら、実はこの句、本人作ではないという説が強いので、長矩の事情も心情も結局、永遠に分からないんですけどね。

平知盛
 見るべき程の事は見つ、今はただ自害せん

上記の御方と180度違って、この句は潔すぎ!
これも本人作なんでしょうかねー。後世の創作だと言われても納得してしまうほどに美しくまとまり過ぎてる感じがしますが。
知盛の死に様を考えれば、確かにこういう句しか出てこないはずなんですが、私が「誰かの創作なんじゃ?」と思うのは、いざこれから死のうって時に、芝居がかったセリフを言う余裕とか、わざわざ言わなきゃいけない理由があるのか? という単純な疑問があるからです。
上記の長矩のケースでは、切腹前の「待機時間」と切腹までの色々なややこしい所作(ほとんど儀式)があるわけだから、時間的余裕もあるように思うんですが、知盛の場合は、もろ合戦中ですよ。船の上で殺し合いしてるんですよ。それで「もはやここまで」と身投げするわけでして、その決意と行動までの間に大した時間はなかったんじゃ? と思うわけです。
あったとしてもせいぜい数秒だろうし、この人にためらいはないはずなので、「田舎のお母さんが泣いてるぞー」と消防隊員に説得される間もなく、あっちゅーまに海に飛び込んだと考えるのが自然な気がします。
その強い決意をわざわざ高らかに自己主張したんだとしたら、「潔い知盛像」は「かまってちゃん知盛」に変わってしまいます。
個人的には「本人作だったにしろ、それは職場の机の引き出しに入れてきただけで、死ぬ直前は、男は黙ってサッポロビール」でFA。

西行
 願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ

単純に響きが綺麗なので昔から好きだった句なんですが、よくよく考えてみるとこの西行さん、お粗末なエピソードが多くて、色々アレな人だったりします。
ただ、それらを知ってからも、特に嫌いにはならなかったのは、この句がものっそストレートだからです。
国の将来がどうとか、大きなことも言ってないし、未練たらたらな感じもしないし、きたりゅー的には好感度大。
私も世が世ならこういう句を遺してポックリ逝きたいものです。
「願はくは燗のもとにて冬死なむ……」とかね。

最後に、辞世の句とはちょっと違いますが、学生の頃に知った、高村光太郎の墓碑は強烈でした。
最初の一文だけを読むと、「あらまー……そうだったのー……(同情)」になっちゃうわけですが、全文を読むと彼の意図が見えてきます。
あれが自作なのかどうか知りませんが。
(知ってる人、教えて下さい)

漢字の話

2011/01/24 (月) [ 歴史小咄 ]

拙作『命の値段 case2:ルビ振り職人の場合』で、アーティストが劉邦の悪口を言うシーンがありますが、

漢字は劉邦が作ったわけじゃありませんから!

と、これだけは言っておこうと思いました。
このあたりを、あとがきで書こうかなとも思ったんですが、賢明なる読者諸氏には釈迦に説法だろうと自重した次第であります。
(でも、ブログでは書く!もし一人でもそういう間違った認識を植えつけちゃうのはヤダから!)
つまり、ストーリーの中では、
「漢字→漢民族が作ったもの(使用していたもの)→漢民族の最初の代表→劉邦(前漢の創始者)」
という単純な思考でもって(アーティストが)叫んだだけで、実際には、漢字は前漢時代に作られたわけではなく、一言では説明できない歴史があります。
一言では説明できないので、以下略……というわけにもいかないので、ちょろっとだけ触れますると……、

中国での文字の起源は甲骨文に遡ります。
殷(商)王朝が使っていたという、亀の甲羅の上に書いていた、占いの文字です。
ここに、今日ある漢字の原型があるわけですが、ここらへんを見ると、改めて漢字って象形文字なんだなーというのが分かります。
それはさておき、この甲骨文が使われていたのが紀元前1500年の頃。
それから数百年をかけて篆書体(てんしょたい)が生まれ、それを統一したのが秦の始皇帝であります。(紀元前221年)
この篆書体というのが味があって美しい文字だと個人的に私は思うんですが、その後に使われるようになった隷書体(れいしょたい)に比べるとだいぶ柔らかい感じがします。
話が逸れました。
そして、始皇帝の頃から1700年の後に有名な康熙字典が出来るわけで、今ある漢字のほとんどはこの字典に拠っています。
で、何故、これらの文字が『漢字』と呼ばれるのかというと、『漢民族が使っていたから』というのも間違いではないし、『漢民族の成立は前漢時代』というのも間違ってはいないんだろうと思いますが、厳密に言えば、漢字の原型を作ったのは前述の通り殷(商)王朝の人々で、彼らは漢民族ではなかったという説もあるし、そもそも漢民族の定義も広かったり狭かったり、と怪しいわけで、ごにょごにょ。
さらに、始皇帝は漢字に貢献したけど、その直後に前漢を建てた劉邦はあんまり(というかほとんど)貢献してないとか、まぁそこらへんはアレです、アレ。
各自で調べてね、としか……。

いや~、歴史って、ほんっとに、いいですね~。
ではまた来週。

玄奘が遠回りした理由は?

2010/12/26 (日) [ 歴史小咄 ]

きたりゅーは中国が何となく好きです。
特に、中国神話や古代の歴史がそこはかとなく好きなんでありますが、「何となく」とか「そこはかとなく」という副詞をわざと使ってるのは、現在の日中関係やポリティカルな面についてはノーコメントを貫くという暗喩でもあり、以下略。
さて、ベタですが「封神演義」とか「三国志」とか、いいですよねー。
日活ですよ、日活。
あ、違った。ロマンですよ、ロマン。(オヤジ度臨界点突破)
私がこれらの中国的フィクション、ノン・フィクションに嵌った原点は恐らく横山光輝氏の「三国志」だと思われます。
孔明の知的インテリジェンス(待て、同義語だ)に骨抜きにされ、いまいち影の薄い劉備はそっちのけで、関羽の「二君に見えず」には一緒に泣いたもんであります。
以来、情熱的に神田を歩き回って『太平広記』を探したとか、大学では中国文学史についての論文を発表したとか、駅前留学して中国語をマスターしたとか、そういう事は一切ありません
せいぜい、教育テレビでたまに『はじめての中国語』を見る程度であります。

そんなこんなで、今日は玄奘三蔵の話。
夭折した美人女優でも、リボルバー撃ってる美青年でもなくて、ホンモノの玄奘三蔵法師の話です。
唐代の中国からインドまで行って帰ってきたお方であります。
きたりゅーは小学生の頃、玄奘三蔵の軌跡を見て「なんでこんな遠回りを?」と思いました。

 ≫とあるブロガーさんの記事(下部の地図参照)

いや、あの軌跡を見て「なんでこんなに遠回りしたんだろう?」と疑問に思わない人は、きっと、

  • (他人の事なんか、まして大昔の歴史なんて)興味ないね。
  • どうも集中力に欠けているようです。授業中もじっとしてられない事が多くええいやかましいぞこぬやろーが、とよく通信簿に書かれていたタイプ。

のどれかだと思ってます。
さて、長安からナーランダまでの道のりは直線距離にして約2,500キロ程でしょうか。
決して短い距離ではないですが、シルクロードの天山南路や天山北路を通るよりは、この直線距離を取った方が、遥かに時間短縮できるはずであります。
しかし、実際、地図を見てみると、長安・ナーランダ間のほぼ中央には、大雪山脈という7,000m級の山々が連なってるわけです。
酸素ボンベとかホカロンがなきゃ、そりゃ、死ぬがな……。
きたりゅーなんか高尾山(注1)ですら遺言書書いてからでないと登らないのに(しかも実際はケーブルカーを使用)、中国唐代で、着のみ着のままで7,000mの山を越えようという冒険野郎は居なかったと思われます。
じゃあ、山裾を迂回するように南下してインド入りすりゃよかったんじゃ? と思ったのは中学生の頃。
西安からハノイあたりまで垂直に南下して、そこからビルマ方面に抜ける道もあったはず……。
その迂回コースだって、シルクロードを回るよりは短距離で済んだはずなのです。
しかし。
それでも玄奘が取ったのは、往復で17年もかかった遠回りコース。
何故だっ!?
と思うでしょ、普通は……。
もしや、玄奘様は世界地図を知らなかったとか……?
いやそれもあり得ない。
唐代に作成されたとされる地図はかなり正確に大陸の海岸線も描かれていて(注2)、当時、玄奘は世界地図も世界情勢もそれなりに理解できていたはずなのです。
だから、そんな賢い玄奘様が「遠回りコース」をわざわざ選んだという事は、「大雪山脈を南に迂回するコース」は物理的には可能でも、政治的、その他の理由で不可能だった――という事なんでしょう。
ええ、きっとそうです。
玄奘が生きた600年代、インドシナ半島あたりは相当殺伐としていたんでしょうかね。
そこにあった国々(南詔や吐蕃)との外交的な問題もあって、西方面の旅程の方が安全だった(当時、唐の領土はかなり西の方まで伸びていたので)、という事かもしれませんが……。

だとしても、地図を見ると、相当遠回りしてるような気がするんだけどね!
多分、それは言っちゃいけないんだね!

ちなみに、玄奘の没後数年、義浄(ぎじょう)という人が海路でインド入りしてます。
(これを海路シルクロードとも言うらしい)
こちらは往復25年かかってますが、多分、滞在期間が長かっただけで、旅程にはそれ程費やしてないような気もするんだけど……。
実際はどうだったんすか、義浄さん。

*1 東京の片田舎(←失礼)にある、標高599mの小山。
*2 『海内華夷図』、『禹跡図』など。